Part7     マドリッド市内観光(11/10)
聖三位一体 1577-79年  実物は300×178cm


エル・グレコの残した数多い傑作のひとつで本作の主題≪聖三位一体≫は、神の実体は唯一でありながら、その位格は、この世のあらゆるものを創造した父なる神、人間の罪を十字架上で償ったイエス、使徒などに下される聖霊の3つが同位にて存在することを意味し、現在のキリスト教の最重要教義とされているもので、エル・グレコの力強く荒々しい筆跡で人体表現の奔放さによって、劇的に表現されていると評価されています。

この深い陰影と、引き伸ばされた人体構造によって表現される父なる神とイエスは、高い聖性を示すものとして、当時の宗教関係者や知識人から、圧倒的な支持を得たようです。

マドリッドの街の風景

サルバドール・ダリSalvador Dalí1904~1989)、

天才と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている、奇抜な作品が多い中、ダリの作品とは思えないムードの作品です、妹の後ろ姿を描いたようです、引きこまれそうな感覚でしばらく立ち止まっ見ていました

パブロ・ピカソ(PabloPicasso,1881~1973.4没)

スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした生涯におよそ13,500点の油絵と素画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な画家であるとギネスブックに記されているとのことです。

ディエゴ・ベラスケス 1599-1660 | スペイン |

現地で購入した主な作品のガイド

首都マドリッド

スペインのほぼ中央に位置する首都マドリッドは、人口300万人を抱えるヨ-ロッパ有数の大都市。16世紀より400年以上もスペインの政治、経済、文化の中心として発展してきました。8世紀初頭よりイスラム勢力の支配を受けていたイベリア半島。マドリッドも例外ではありませんでした。市内の西部地区の王宮がある丘の上には、かってイスラムの砦があつた、しかし北部で力を蓄えていたキリスト教徒がスペイン国土の回復を目指して戦闘を開始。これがレコンスキタ(国土回復運動)となり、その波はマドリッドにも押し寄せ1083年にはアルフォンソ6世が丘の上にあった砦を奪回。その後1492年のグラナダ陥落までレコンスキタは続いた歴史があります。

ガイドブックには完成までの下書き等数多くのデッサンが掲載されています。下書きは色付きのものもあります。

2006.11.10朝
モ-ニングコ-ル   7;30
朝食         7;00
出発         9;00

窓際の少女(1925年 Dali)

11/9と10日と2連泊したマドリッドの『Hoteles Santos PRAGA』

スケジュ-ル(clickしてください)

ピカソがそもそも、「ゲルニカ」の絵を描いたのは、「パリ万博に掲げる壁画を制作してほしい」という祖国スペイン共和国政府からの依頼がきっかけでした。
当時、フランコ将軍率いる反乱軍によって、国土の半分以上が占拠され、スペインは激しい内戦状態にあり、政府は、この現状をピカソの絵で世界に訴えようとしたのです。しかし、その依頼から3ヵ月後の1937年4月26日、スペインを悲劇が襲います。反乱軍を支援するナチスによって、スペイン北部の町、ゲルニカが爆撃され、1600人以上の命が奪われました。
この惨劇は、ピカソに大きな衝撃を与えました。ゲルニカ爆撃から5日後、ピカソは猛然と下絵を描き始めました。
闘牛の国スペインでは、牡牛と馬は、生と死のドラマを最も身近に感じさせてくれる存在。それらを使って、ピカソは虐殺された犠牲者を表現したと言われています。
もあるのです。死んだわが子を手に泣き叫ぶ母親、体もよじれ苦しそうにいななく馬(住民を例えているようです)、人間の目をした牛はフランコを表現したようです。
一番下には、唯一描かれた男の兵士がいます。その死んだ男の手には、折れた剣、窓から室内に首を突き出しランプを掲げる悲しそうな女など奇妙な像や、逃げ惑う女や天に助けを求めているのか、地獄に落下寸前の様子なのか女の叫び声が聞こえてきそうです、当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれています。あえて血の色を見せなかったことが格別の効果を与えているのではとの評価です。

ソフイア王妃芸術センタ-

ピカソの大作『ゲルニカ』が見られます

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤ屈指の代表作『裸のマハ』。マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語で、厳格なカトリック国家で、神話画を含む如何なる作品であれ裸体表現に極めて厳しかったフェリペ4世統治下のスペインにおいて制作された非常に希少な裸婦像作品であるが、ゴヤは本作を描いた為に、制作から15年近く経過した1815年に異端審問所に召還されたということです。

『裸のマハ』を制作した翌年以降に手がけられたと推測されています。

『裸のマハ』と同様の姿勢・構図で描かれており『裸のマハ』との最も顕著な差異は、マハは当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れたトルコ風の衣服に身を包み、化粧も整えている点であるとのことです。

これらの描写はゴヤ特有のやや大ぶりな筆触によって繊細ながら表情豊かに表現されているほか、色彩においても黒色、金色、緑色、紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の雰囲気や質感を見事に表現していると評価されています。

『ゲルニカ』

プラド美術館


スペインが世界に誇るヨ-ロッパ3大美術館のひとつ、スペイン王室の絵画コレクションを一般公開する目的で1819年に開館した。その後教会や修道院に保管されていた宗教絵画なども寄贈され、その数は8,000点、展示3,000点にも及ぶそうです。スペインの3大画家、ベラスケス、グレコ、ゴヤ、の絵画が揃っており、流石に実物は重みがあるというか、渋く輝いているように見えました。

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タホ川に抱かれるような地形のトレドは、古代ロ-マ時代から要塞都市として栄えてきた。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教という三つの宗教が共存したことでトレド独特の文化と街並みを生み、エル・グレコなど多くの人々がこの町を愛し、世界遺産にも指定されました。

迷路のような石畳の細い坂道が多かった古都、間もなくトレドの街へ入ります。(2007.11.10午後)

王宮前の風景

カルロス4世とその家族

裸のマハ

1798-1800年頃 実物は縦97cm幅190cmですので
かなり大きなものでした

ゲルニカ中央市場、逆さになった車が爆撃のすざましさを物語る

ディエゴ・ベラスケスの傑作ラス・メニーナス

中央にいるのが王女マルガリータで、まわりにいるのが侍女や道化そして、筆を手にした画家自身ですが、よく見ると全員、同じ方向を見つめています。部屋の後ろの壁に掛けられている鏡には、一組の男女の姿が映っています。男性は、フェリベ四世、女性はマリアナ王妃、つまり、マルガリータの両親です。この二人をベラスケスはある意味大きなキャンバスに描きました。ベラスケスは、後ろの鏡に自分が描いているものを映すことで、皆の視線の先にあるものを示したとのことです。

つまりこの絵は、手前に立つ国王夫妻を皆が見つめている、という変った構図で描かれているのです。
どうして、ベラスケスは、わざわざ変った構図で描いたのでしょう・・・。フェリペ四世の時代になると、太陽の沈まぬ国スペインも、ヨーロッパでの領土はかつての三分の一に縮小され、戦争によってい膨大な借金にあえぎます。そして、そんな国王に追い討ちを掛けるように最愛の妻と息子が病死してしまいます。
1651年、悲しみに暮れていた国王に希望の光が差します。新しく迎えた妻マリアナとの間に、王女マルガリータが誕生したのです。王女が5歳になったとき、国王はベラスケスに書斎に飾る家族の肖像画を依頼します。

国王のマルガリータへの思いを知るベラスケスは、この絵を見ることで心が癒されるよう、家族の幸せな日常を国王の目線で描きました。
そして、フェリペ四世は、この絵を見ることで、いつでも幸せな家族のきずなを感じることができたと言われています。

★昼食 タパス料理 夕食 中華料理

受胎告知    1597-1600年   実物は315×174cm

ゴヤが宮廷の首席画家に昇進した際に制作した、国王カルロス4世一家の集団肖像画。画面中央には国王カルロス4世ではなく王妃マリア・ルイサが描かれているが、国王一家は作品の出来栄えに満足していたと伝えられています。

着衣のマハ

  1798-1803年頃 実物のサイズは裸のマハと同

17世紀スペインバロック期に最も活躍した宮廷画家。1623年国王フェリペ4世付の画家となり、以後生涯の大半を宮廷画家として首都マドリッドで過ごしたとのことです。

マドリッドから南へ約70km『トレド』へ

サン・マルティン橋(トレドの街へ)

ゲルニカ』国際的にも有名な絵画ですが、キャンパスのデカサにビックリ、高さが3.5m、横が7.8mもあるそうです。

エル・グレコ 
1541-1614 | スペイン(ギリシャ) |

王宮

スペイン王家の豪華で巨大な宮殿、火災で焼失したがフェリペ5世の命により再建、1724年に完成、部屋の数2800室、フランスとイタリアの建築様式を取り入れているとのこと。

免税店前にて添乗員さんと記念の1枚

エル・グレコ後期を代表する傑作『受胎告知』。
大天使ガブリエルから父なる神の意志により神の子イエスを宿す聖なる器として聖胎を告げら、それを静粛に受ける聖母マリアを描いた≪受胎告知≫の場面で、現実感を超越した極めて象徴的に表現されています。

画面中央よりやや上に描かれる父なる神の三位のひとつである聖霊が放つ非常に神秘的な光によって超自然的に表現される全体の雰囲気は、エル・グレコの古典的表現からの逸脱を示し、画家独特のうねるような筆跡によって他に類をみない独特の世界観を構築することに成功していると評価されています。

このような神秘性を携える表現手法はエル・グレコの後期の大きな特徴のひとつであり、それが最も明確に示される作品としても知られているようです。

フランシスコ・デ・ゴヤ
1746-1828 | スペイン |

購入したガイドBookより

イタリア(ヴェネツィア・ローマ等)やスペインで活躍、出生はギリシャ クレタ島。イタリア滞在時は報酬などでの金銭トラブルが絶えず、生活ができないほど貧しい暮らしを強いられた。1576年頃スペインへ渡り宮廷画家を志すが、エル・グレコ自身の独自性となり始めていた奇抜な構図と非現実的な色彩が、当時絶対的な権力者であったフェリペ二世の不興を招いた。その結果、宮廷画家への道は閉ざされるが、宗教関係者や知識人からは圧倒的な支持を得たとのことです。以後、逞しい肉体の表現から、人体の長身化が顕著になり、形態は流動性を帯びて行きました。20世紀初頭印象派の画家達やピカソらによって、その独自性が再評価されたとのことです。


近代絵画の創始者の一人として知られるスペインの巨匠。1780年サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められ、王室や貴族の肖像画を描く。その写実的な作風が支持を受け、1786年国王付の画家、1786年、新国王になったばかりのカルロス4世の任命で宮廷画家となります。

まだ煙の上がる空爆後の様子

トレドの街を囲むように流れるタホ川

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